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おはようございます、タカビーです。


その10いよいよ十牛図も最後の1場面となってしまいました。 


この十牛図・・・。 今更ながら思いますが、人が何かを志し、そしてそれを会得し、いつしか指導者となる過程によく似ています。


ただし禅の世界ではそうですが、実社会においては往々にして未熟であるにもかかわらず、先に立たねばならないことがあります・・・。


今現在の私もそうです。 私生活面でも大変で、悟りどころではありません。 


相談者の方や掲示板での書き込みなど、いろいろと喋ったり書いたりしていますが、いつも自分の未熟さを痛感しています。


また哲学的な話になってしまうのでジャブくらいにしておきますが、悟りがないということを悟ることも必要かと最近では思ったりしています・・・。



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【十牛図その10〜入鄽垂手(にってんすいしゅ)】


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



このように再び、本にかえり、万物が豊かな色を示す世界に、私は何事も起こらなかったかの如く帰ってゆく。


脚を現し、腹をむきだし、一見愚者の如くに、町にさすらい歩き、物にあえば物に親しみ、人にあえば人と笑い、見知らぬ人の間で、慈悲を世界にふりまいて生きている。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



(鈴木大拙氏の解説)



この入鄽垂手(にってんすいしゅ)ということがなかったならば、禅宗も宗教ということは言えないのである。


自利はやがては利他でなければならぬのだ。これが(大乗)仏教の眼目であって、仏教徒は人の中に入って、本当に救済の事業をしなければならぬのである。


政治家でも金持ちでも、金持ちは金という力を動かし、政治家は権力を行使するのに都合のいい位置にある。 この好位置にあるものが、どうしても宗教というものに対して、もっと理解がないといかぬと私は思う。


学問のある人、金のある人、それはその人のみのものでない。その学問、その富の力というものは、ただ自分のために使うべきものではなくて、人のために使うべきものだろうと思う。


そうなると、ここにじっとしているわけにはいかぬ、外に出て働かなければならぬことになる。


宗教だからといって、ただ個人の安心にのみ資すべきではなかろう。そんなことだけに安んじては、本当の菩薩行はできぬ。自分はこれでいいというところから、街頭に出てこなければならぬ。


それで十牛図というものは、この点について、よく人間の精神の発達ということ、人格の円満ということなどを、まことによく図解で示しているのである。


ここでの解説は次の通りです。


>童子が対面しているのは、悟りを得た老人である。


悟りを得たものは、広くそれを伝えなければならないことをあらわしている。


しかし老人と語る童子の姿は、最初の『見跡の図』に見える姿と同じである。



その10ここで忘れてはならないことがあります。 それは、登場人物が一人ではないということです。


最初牧童は一人で苦労して牛を捕らえ、手なづけました。 牧童はこれらのことを一人で全てやってきたのです。 それは誰に教えられたわけでもなく、苦難の連続でした。


そして牛を伴って住処に戻った牧童は、牛の存在も忘れ(忘牛)自分の存在さえも忘れてしまったのです・・・。


しかしながら、一旦は無になったはずの牧童がここではにこやかな老人として登場します。 この老人の横では、かつての自分と瓜二つの牧童が何やら教えを請うている様子です・・・。


牧童は牛を忘れ、自分を忘れ、全てを空にしました。 そして歳月が流れ、かつての自分と同じことで悩める人の役に立てるようになったのです・・・。


歳月が流れたということは、牧童がここで柔和な老人となって登場していることに象徴されています。 自我と自意識から開放されたことは、この老人の姿に現れています。


だってどう考えても、こいつはちょっと酷いみすぼらしい格好です!(笑


しかしながら、ここでの老人がスーツにネクタイ姿なら、あなた! やはりひくでしょう・・・。(爆


多くの徳を積んだということは、老人の持つ袋の大きさが牧童のそれと比べてもかなり大きいことから想像できますね・・・。 日本の大黒様や恵比寿様、布袋様などは大きな袋を持っています。 これらの袋はその人の持つ徳の大きさといえるでしょう・・・。(布袋和尚)


余談ですが、この絵を見る限り老人はかなりのメタボです。(ノω`) しかしながらこれには意味があって、古来中国では聖人や君主(俗に言うエラい人)は下腹が大きく出ています。


清朝の頃の中国でも、金持ちは太って腹が出ていないと貫禄が無いとされたそうです。


話を元に戻しますと、「悟りを開いた者は、衆生に教えを説いて回りなさい。」と言うことです。 だからこそ仏教は宗教であるということなのでしょう・・・。


私は前回の返本還源(へんぽんげんげん)で、このように書きました。


>自意識を断ち切って、忘我に至り、そして月日が流れれば、人もまた廻り来るのです・・・。


そして月日が巡った時に、教えに立ちなさいというのがこの十牛図の言わんとするところでしょう・・・。


この入鄽垂手(にってんすいしゅ)という場面ですが、私はかつては依存症ギャンブラーであった人がズバリ、今現在ギャンブルへの依存で困っている人を救済する為に働く姿だと思います。


掲示板や自助グループの、師範・サポーターのような方と言えるかも知れません。



〜さて、ここまで十牛図いかがだったでしょう?〜 


次回には最終回、十牛図のまとめとして最初の尋牛(じんぎゅう:牛を探し彷徨い歩くところ)から、最後の入鄽垂手(にってんすいしゅ:牧童が得を積み、教えを説きに出る)までの解説をさせていただきます。


〜今日も最後までありがとうございました。〜


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